さくらんぼの王様「佐藤錦」
山形県のさくらんぼ栽培面積は、約3,000haで全国一を誇り、このうち、約7割を「佐藤錦」が占めています。
現在では、さくらんぼのトップブランドとなった「佐藤錦」ですが、昭和50年代までは、主に果肉が固く収量の多い「ナポレオン」が加工用として栽培されており、雨による実割れが多い「佐藤錦」は、生食向けに一部で栽培されるのみでした。東根市を含む山形県は、収穫期となる梅雨時の降雨が少ない地域とされていますが、それでも雨による実割れは避けられないため、赤く熟す前の「黄色いさくらんぼ」の状態での収穫を余儀なくされていました。
しかしその後、市内の生産者の創意工夫により、パイプハウスの屋根部分をビニールで被覆する「雨除けハウス」が開発され、昭和60年代に入り普及すると、実が完全に熟するまで収穫期をのばせるようになり、佐藤錦が本来持つ「ルビー」に例えられる深く美しい赤色と、上品な甘さ、酸味のバランスに優れた食味が出せるようになりました。こうして、生食用として高い評価を得るようになった佐藤錦への改植や新植が進み、現在の地位を築いたのです。
「佐藤錦」誕生秘話
〜佐藤錦の生み親 佐藤栄助氏・育ての親 岡田 東作氏〜
「佐藤錦」は、大正初期に東根市で生まれました。その誕生秘話をご紹介します。 明治のはじめごろ、時の政府は欧米から輸入した桜桃(さくらんぼ)を全国20県に配布し、栽培を試みましたが、収穫期が日本特有の梅雨と重なることから、ことごとく栽培に失敗したため、さくらんぼは山形県内で細々と試作されるにとどまっていました。 東根市三日町に生まれた佐藤栄助氏は、明治41年に家業(醤油醸造)を廃業し、松林を開いて果樹園経営を始めました。氏は、その苗木の数種類を買い取り、自身の果樹園に植栽。当時開通したばかりの鉄道を使って関東方面に出荷できないかと考えました。 そこで大正元(1912)年、甘いが果肉が柔らかく保存の利かない「黄玉(きだま)」と、酸味は強いが果肉が硬く日持する「ナポレオン」を交配。その後も研究と育成を重ね、大正11(1922)年に初結実に至ります。そして、大正13(1924)年に「食味も日持ちもよくて、育てやすい」特性を有し、食味と外観が最も良いものを選別し「原木」としました。 この時まで、栄助氏とともに新品種の開発に情熱を注いできたのが、氏の友人である現・(株)天香園(苗木商)の初代・岡田東作氏です。東作氏はこの新品種の将来性を見抜き、昭和3(1928)年に佐藤栄助氏の名を取って「佐藤錦」と命名し、世に送り出しました。命名にあたり、栄助氏は「出羽錦」との案を出しましたが、東作氏は『発見者の名前を入れた「佐藤錦」がいい』と押し通したと言われています。 新品種の育成からおよそ100年。「さくらんぼの王様」として君臨する「佐藤錦」が、今日の「果樹王国ひがしね」の大きな礎を築いたのです。またその功績をたたえ、平成30年3月、両氏に「名誉市民」の称号が贈られることが決定しました。
佐藤 栄助氏
岡田東作氏
佐藤錦の原木